このアンサーは主観で占められています。パンダ(白黒熊)しか見たことのない人間がクマ全体を語っているようなレベルなので、たっぷりと割り引いて読んでください。

単に面白い芝居を見たい、ようは舞台にフォーカスしたいのであれば、お金を払ってプロの興行を見るべきです。
『舞台を見たけどつまらなかったです。そのことを直接、演劇部員に伝えてもいいですか?』でも書きましたが、高校演劇とはその名前の通り、高校生(プラス、大人だけどアマチュアの顧問)が作っている舞台です。はっきり言いますが、素人の私が見ても「そうじゃなくて、こうすればいいのに」と思うシーンが次から次へと出てきます。感性が光っているところもあるけど不格好なところも目立つ、ようは「荒削り」なんです。
こう書くと、「面白いとはいえないのに見に行く意味がわからない。あなたはなにを楽しみに高校演劇を観劇するんですか?」と疑問に思われるでしょうから、以下、三つの目的、理由を述べます。
"演劇"ではなく"演劇部"を俯瞰して共感する
私が好きな映画の一つに『がんばっていきまっしょい[1]』という邦画があります。田中麗奈が18歳のときに主演した青春物で、故郷に戻ってきたボート元日本代表の訳あり女性(演・中島朋子)との出会いをきっかけに、田中麗奈を始めとする弱小女子ボート部の面々が頑張る話です。
この映画、まずノスタルジーを刺激する冒頭がいいんですよ。ずっと使われておらず、廃墟化している学校のボート置き場をそろそろ壊そうと関係者が訪れます。そこで彼らは一枚の色あせた記念写真を見つけるんです。写っているのは笑顔ではなく、アンニュイな表情をして並んでいる10年以上前の女子ボート部員たち。
そして、タイトルとともに主題歌(これがまた名曲!)が流れ、彼女たちが現役だった"あの頃"が始まる。
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中島朋子をコーチに迎え、ボート部員たちは本格的に大会での勝利を目指し始めます。しかし、いかんせん、中島朋子は上の空というかまったくやる気がない。でも、次第に部員たちの熱量を認めて基礎から教え始め、部員たちはその教えを吸収して練習に励み、自信をつけていきます。そして、弱かった自分たちがどこまでやれるのかという不安も抱えながら新人大会へ――。
大会でどうだったのか興味がある人は本編を見ていただくとして、いくら元日本代表がコーチになったといっても、ボート部のレベルがいきなり全国トップになるわけでもなく、クライマックスはあくまでも「新人大会」です。多分、競技レベルは下の中ぐらいでしょう。
だけど、私は下の中のレベルでしかないボート競争であっても、一時たりとも目を離すことができず、ラストスパート時に発せられたコックス[2]のヒメ(演・清水真実)の「スパアアァァト! スパアアァァト! 逃げるんよぉーっ! 逃げるんよぉーっ!」という絶叫調のかけ声を耳にしてこみ上げてくるものがありました。
私が思うに、この映画の一番のよさは、"向上心を持ち、下手でも成長しようとするボート部員たちに共感できる"ことなんです。"競技"そのものを見るのではなく、"ボート部"の挑戦を見ることで初めてそのよさを感じられる。
このような魅力を持つフィクションって数え切れないほどありますよね。それだけ"競技そのものではなく、競技に携わっている人たちを俯瞰して共感する"という見方は、フィクションにおいては普遍な魅力を持ち、万人向けなんだと思います。
高校演劇はフィクションではなく"リアル"ですが、同じ楽しみ方ができます。舞台のレベル自体は決して高くないかもしれない。でも、ステージ上での彼らの姿、また、審査結果発表時に絶叫したり、泣き崩れる姿を見ればどのような過程を経て大会にたどり着いたのかある程度は想像することができる。そして、自分が高校生だった頃を思い返しつつ、彼らの努力に共感して感動するのです。
商業媒体では見られない独特なストーリー展開を楽しむ
私は作り手として小説のことしか知らないので、これから見当違いの意見を書いてしまうかもしれませんがご容赦ください。
高校演劇の舞台を見ているとちょいちょい、「これからどうなるんだろう」ではなく、「これからどうするんだろう……」と作者目線で心配と不安が入り交じった気持ちになります。テレビドラマなどの商業作品で見ることはまずないだろうっていう流れでストーリーが展開していくからです。語弊を恐れずに書くなら、小さなアイデアを強引に引っ張り伸ばして一本の話にしたら、こんな風になるかなといった感じ。
脚本を書く顧問(部員)の立場に立って考えると、促成栽培的な作りになってしまうのは仕方がない。通常業務で忙しい中、舞台にできそうなアイデアが出たら、それを取捨選択したり練ったりする時間はそこそこに、すぐリソースを突っ込んで形にしないと稽古できないし大会に間に合いませんからね。
一方、私たち観客からすると、そんな感じの話をテレビや映画で目にすることはまずないので、「俺は今、ここ(高校演劇の大会)でしか見られないものを見ている」という、ある種の特別感に浸ることができます。
商業媒体では使われないプロットを顧問と演劇部員が時間と情熱をかけて形にしたらどんな風になるのか、マンパワーをふんだんに使った贅沢な創作実験に立ち会っているようで楽しいのです。
高校生が作った創作物に順位がつけられていくスリルと緊張感を味わう
物語を創作した経験のある人なら、高校生が話を考えてそれを舞台で上演することがとても興味深く感じられるでしょう。私も初めて高校演劇を見に行くと決めてから、どんな舞台をやっているのか皆目見当がつかなかったので、もう楽しみで楽しみで仕方がなかったことを覚えています。
さらに衆人環視の中、創作物に順位をつけて、作った高校生たちの目の前で発表するってのがなにげにすごいと思うんですよね。見ようによっては残酷ショーですよ。
具体的にどの辺が残酷なのか、演劇に携わる人の心理はわからない部分が多いので、同じ表現者で私の守備範囲である"作家志望者"の心理を使って説明してみます。
まず、経験上、小説って作者の分身になりやすい。なぜかというと、作者の価値観の集合体だからです。
- こういう話が面白い
- こういう話がいい話
- こういう話が泣ける
- こういう女性が魅力的
- こういう男性がかっこいい
と思って作者は書くので、内容を否定されると、まるで「きみは本当に"つまらない or 物事がわかっていない or 軽薄な"人間だな」と人格を否定される印象を受けてしまうことがあります。全能感あふれる若い頃は特に。多分、今はプロで大活躍しているような人でも思い当たる節はあるんじゃないかなと。
それでも、「いや~、確かにその程度なんだよ、ハハハ」と心の中で自虐的になれれば多少は楽なんでしょうけど、難しいですよね。だって、頼まれもしないのに物を書いて、それを人に読ませるようなメンタリティなわけですから。
悪い評価を告げた人間に対し、「なにも書けないおまえに……!」と言葉を浴びせたくなるのを我慢しつつ、悔しさ、屈辱、恥、怒り、疑心……どす黒い感情が体中を埋め尽くしておかしくなりそうなのを耐える。きついなあ。
それで、もしですよ。もし、演劇でもそういったことがあるなら、講評時や審査発表後、高校生たちは暗黒面に堕ちていきそうになりながらも必死で平静を装っているのかもしれない……。
高校演劇大会において、上位の大会に進めるのは一校か二校です。それ以外の学校は、実質的に「これ以上、見る価値なし」と宣告されます。たくさんの学生が何カ月もかけてやったことが身も蓋もなく否定されていくわけで、審査発表後の会場には大量の負の感情が渦巻いていても不思議ではありません。
実際、毎年、最優秀校の部員たちが喜んでいる横で多くの高校生たちが沈黙している光景を見ていると、相当傷ついているなってことは伝わります。特に舞台の内容からして、「少なくとも優秀賞はいけるし、あわよくば最優秀も!」と踏んでいたであろうに完全スルーされてしまった学校の部員とか、最優秀賞常連なのに落ちたところとかは。
「つまりなにか、高校生が傷つく姿をショーとして楽しんでいるのか、おまえは!」
といわれると、「いや、全然違いますよ」って話で、私のような中年の凡人からすると、作った人間が暗黒面に堕ちそうになるぐらいのガチンコ勝負、それに付随するささくれだった雰囲気、脳汁あふれる緊張感を自分のこととして味わえる場ってほぼありません。はっきりいえば、そこに挑む彼らがうらやましい。だから、部員の姿を通して間接的にでも味わえるってだけで足を運んでしまうのです。
高校演劇に面白い舞台は存在しない?
長々と芝居以外の楽しみを書いてきましたが、高校演劇には面白い舞台が存在していないのかというとそんなことはありません。
ただ、掛け値なく"めちゃくちゃ面白い"舞台を見るには観劇の継続性、もしくは運が必要かな(もちろん、全国大会を見に行ければ遭遇する確率は高くなる)。ハリウッド映画ですら、めちゃくちゃ面白かったといえるものに遭遇することってあまりないですよね? 初めての観劇でそんな舞台が見られたら奇跡に近いですけど、可能性はゼロではないのでとりあえず見に行かれてはいかがでしょうか。行けば上記にあるような別の楽しみ方を見いだせるかもしれませんし、世の中に楽しみが一つ増えますよ。
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